冊封頭号船航海(天妃菩薩)物語

  

 

1、南下
 

時が変わろうとしているのか、淡く朱をはらい、しわれたような白い雲がおおうなばらを指して飛んで行く。大海の向こうには、王孫の琉球が待っている。時がたつ。 



 

1756年、春の気配が感じるころに北京を離れてから70日、2500キロを南下した冊封正使(全魁)、副使(周煌)ら一行は福州へ到着、疲れがないと言うと嘘になる。けわしい自然を相手に旅の大変さを身にしみて思う。 


 

思わぬ大命を受け、大国の中華(中国)と百有余の進行国のひとつ、琉球中山王の請冊に応じるため、北京から阿僧祇の里をたどりたどり降りてきた、仰いでみれば福州に着くと、天帝(夏の神)が行き幸する時期となる。


 

中華(中国)の玄奥が北京だとすれば福州はその足下すなわち玄関に相当するかも知れない。その街はそうぞうしく、衆人が足げなく通うさまに踏み場もないほどで、そこで宿をとり休息した後、一行は吹きこぼれる異国風味の潮の香りをしながらそれぞれの役目を果たすため、街へ散って行く。
交易に使われる搭乗員の人選そして唐人の持ち出し品の数、分量またその整理と日々準備に追われ続け、そんな忙しい時突然眩しいものが向こうから来る、人の世を糾う縄のように赤舌日と吉祥日が経廻る、つまり歴日の大安日に楚々として天妃堂を参拝したときのこと、おもむろに拝礼して、香をたいて三度下に額を傾ける。
本来は、国の安全と皇帝の災と大義の成就と、なによりも航海の無事を神に託さないといけないが、やわらぐ天妃と脇の威光を笠に着て、とじこもる者が居ても不思議ではなかった。しかし誰一人交易の利益はおろか、評価への期待とか一攫千金の絵空事は夢さら口にせず、雷が落ちた後のような沈黙に我が身をゆだねる心地いいその瞬間、神と共にやわらぎ、迷宮の戯曲をつくり琴の音を奏でながらそれぞれ物思いに吹ける、荒てて頭を降ると風が吹き、風が巻いて吹いている、きっと千里眼が風を見切り、順風恰好な追い風を手向けてくれるだろうと

南無、妙霊詔天妃菩薩
 

 

2、出航(帆)

 

冊封正使と副使と随員(武官や兵員)の乗った頭号船と二号船、そしてみちずれに接貢船は、1756年7月5日に出航した。

神亀に見送られつつ五虎島、一枚岩が風化してまるで五頭の虎が吠える様を見ながら一斉に外洋へ繰り出す、程なくして馬祖島、そして鶏竜山(台湾基隆)をつぶさに魚釣島を過ぎ、赤尾岩礁のかたわらを滑るように通過し、航海は順風満帆だった。

とりわけ頭号船の速度は群を抜いて、みるみる他船が小さくなり米粒となりやがて視界から消えた。船の天妃様のお香は朝夕絶やすことなく焼く、神事と言うべきか航海は万里な風に守られ、その風に乗り五虎門を出て3日目に待望久しい島影が見え始める、姑米山(久米島)、




  一行は思い思いに胸を躍らせたことだろう。ところが喜びはつかの間、嘘のように風が止んだ。一行は何の手立てもなく時として運ははかなくも思う。

 

3、凪(なぎ)ノーイ

 

6月13日、久米島の海は光り凪ぎ、場所は具志川間切番所。

王府(首里)から近じか冊封船が通る旨の連絡を受けてからというもの、感じることもできない風しか吹かない、間切番所は緊張の糸を解く間もなく、打って変わって今日はうだるような暑さときてお手上げ状態だった。時頼怪しい悪夢が忍び寄る、海は油が散ったような凪ぎ(アンダノーイ)、4時とはいっても、夏空の日は高い、だんだん斜陽となり、突然、視界の色が変わる大船の影が忍び込んできた。素っ頓狂な声が響く、口に手を当てながら、


 その影がだんだんと大きくなりしだい苦しい裏声もかすれる、やがてその奇声が身振り手振りにかわり、交信に幾度か動きがとまりとまりしている間に、息をはずませた番詰所のひとりひとりと集まってきた。

「はっさよー、うすましい船やっさー」「唐船でぇーがやー」

「息吹ち、唐船や有らんしが。彼の方角んどぅ得ねー、唐上いでぇーしが」

「ふん成程。冊封船どぅ得ねー、唐からぬ下い船とぅ一緒作らんねー作んぐとぅ、案為え方角ぬ当たらん。有無、呉れー御可笑ん」

「完ちえさ。確か御上から周知有たぬ御冠船どぅ得ねー、西側とぅ北側ぬ中海路か基ぬ間どぅ通過ぬはじえしが」

「近頃や、唐上いぬ周知や無作とぅ聞かさらんしが」

「待てぃよー、急じなさんなよー、
若し呉りが南蛮船どぅ得ねーちゃーすぬ場合が」

「やーぬ眼―かいや、杉板船(ボート)に可視んなー」

「有らんよー、不可視しがよー、有無、考えーてぃみーねー、
くーてん遠さぬでーる」

「程遠さん、程遠さん」

詰番はうたがうような気持ちを抱いたまま、

急傾斜の山路を降りて番所へ通報した。

直ちに具志川間切番所から仲里間切蔵元(大和横目勤番)へ使者が走った。

船は静寂を保ったまま、無風の海に浮かんでいる。

どこまでも透き通る海と空だった。

どこを目指すのか旅人、果てしない水平線に打つ手なし、

今は船の動きを固唾を呑んで見守るだけ、

憩うひまもないのにまた夕暮れが近づく。

「朝凪り夕凪りてぃ、船や動かんしが」「潮ーの南風走いでんてぇー」

「潮ーかい乗てぃどうる」「故障りてぃあらんがやー」

幾度同じ会話が交わされたことだろう。いろんな憶測がみだれこむ。

夜になり、月夜が海面を白くおぼろに敷きつめ、

のっとりのっとりとどろ海のよう。



思い切って、陸から火を挙げて合図すると、船から微かな光が揺れて見えた、

合図でふねの様子がわかるようになり、

「来船の許しをお願いしているな」「あれは唐船の合図だ」

「矢っ張り、御冠船に間違いない」

17日から18日の両日、東北から逆風が吹き、20日から23日にかけて、

それが激風から暴風雨に転じ、

多くの嘔吐者が出たので、久米島からの接封の方が、冊封船を訪ねて、上陸を勧めたが、

正使は安全を配慮して乗員一行に上陸を許さなかった。

 

4、神佑

 信実、異国の地で死ぬことになるかもしれない。山のような波が、船を木の葉のように扱う、

時には山と山の谷底から、一気に山の頂上に持ち上げられたと思うと、

ふわっと谷底へ投げ落とされる、

想像を絶する恐怖。その際手綱を断ち切り、海に投げ出され漂流した方が得策とも考える。

 風は、衰えることなくすさまじくなり、縄が切れ船は、その場から解き放されたように横ばいに押し上げられ、

うねりの山波は水平に移動しながら、その反動で船のいたるものをさらって大音声と共に座礁した。

海水が吹き出し、敗れた船板のいたるところから、みるみる浸水が始まる見上げれば雷がなり、

おどろおどろしい横殴りの雨と風でもう終わりかと覚悟を決めたとき、地から湧いたか、天から降って来たのか、

神秘な光が、煌びやかなに放ちながら宙に舞う

「天妃様の御光だ」「天妃菩薩の思し召しだ」衆人が異口同音の叫ぶと、



しめやかに鳴りを潜めていた船がふわりふわりと浮くと、

自らは岩石の一部と化したように微動だにしなくなり

沈没を免れたと思うと、残された道はひとつ、衆人はこれを機に乗じて小舟を降ろし、

手に手に大事な品々を載せめでたく上陸がかなった。

 この事の総ては、天妃の御加護で九死に一生を得た乗員2百余命が全員の無事にすんだことは言うまでもない。

5、救助

その後、冊封使一行は、仲里間切の蔵元に約2週間程、

滞留することになるが、一方「陸の側」即ち、

喜久村家(間切地頭代)の所蔵の「口上覚」の写しか草案らしきものによるとその件は、

大事件であったことが書かれている。

 

 口上覚、喜久村家(地頭代)

恐多御座候得共申上候去子六月勅使様御乗船御渡海砌當間切真謝泊之沖江被遊御潮掛候内・・・・・・
強風により海が大荒れとなりましたので、心配でたまらずとりもなおさず縄索やいかりをたくさん用意したが風波はますます酷くなるばかりで夜になると間切役人をはじめ村人達も次第に集まり(幸いに雨が小止みになり)乾いた薪を要所要所で燃やし南と西の干瀬崎から囲い込むように、又別の下手のほうも篝火を焚き連ねて船の様子を見守っていましたが、突然縄索が切れてしまい船が大波にさらわれあっと言う間に黒石という岩礁にへ打ち上げられてしまいました。船は上よ下よの大騒ぎで、勅使様の御姿すら見分けることが出来ないくらい大事でした。そこで一身を賭してお助けするのが何よりの御奉公だと衆人の考えも一致して、村人からは泳ぎの熟練者らが荒れ狂う海へ飛び込み、次々と船へ辿り着くと、手振り身振りで合図を交わしながら


天馬船(荷物や人を本船まで運ぶ小さな船)を降ろし、救助に備えようとしましたが大波に呑まれて困難をきたしてました。一時が万事、一体如何なることやら、はらはらしながら見ていたのですが、海の熟練者達が遠巻きの輪を徐々にしばめながら励まし励まし安全な陸のほうへ手際よく助けることができました。両勅使様(正使は全魁、副使は周煌)は衣服がお濡れになっただけでお怪我もなく首尾よく助けられたことは幸甚この上ないことでした。その後、蔵元へご案内した両勅使様は先刻来の濡衣を有名な衣裳へお召し替えていただき、尋いで心許しの持成しですっかりお寛ぎになり一日のお疲れを癒したしだいでございます。

その後も荒れ狂う海のさなかを泳ぎの熟練者達が再度船に渡り、大帆頭などの帆を海に切り落として陸の方へ引き、それを利用して貴重品(中国皇帝が琉球国王に任命する紹勅、王冠、王服)を運んだことも詳しく説明している。



 

 冊封正使(全魁)、副使(周煌)ら一行は、久米島で静養した後に首里王府へ向かい到着し、

冊封の儀式の勤めを果たして、約8ヵ月間滞在して帰唐しているが、

その間本地で今までの足跡を印している、



つまりそれは九死に一生を得た2百名余の神佑を感謝する意味で

天妃堂の創建を国王の支持で実現したことである

1756年に天后宮を真謝に建立

※冊封正副使他が寄付及び寄贈品など送助

※国王(尚穆18才)も瓦、工費を用立て、王の命令で建立


21、天妃菩薩さんをお返し願います。

電話がありました、その方は隣のお姉さんでした「ブサードーの天妃さんがよその地で寂しそうにしているよ」と亡くなった兄の思いを残しておこうと期(HP)したことが、少し少し明らかになり、ひとりひとりの祖先が子に気づかせ地元歴史の大切さ浸透の兆しがこうして知らされる。風の便りでは、戦争中に米軍の方が持ち去ったとか、最近現代に盗難にあったとか、それで天妃さんのレプリカでお守りいただくことの心のいたみも感じる。それが琉球処分の島の住人偉いさんも、本土の偉いさん(島津と思う)に従うしかなかったのであろう、天妃さんはその人にお土産としてもち行かれたのか、またその方から感謝状(お礼状)等が久米島文化センターに残ると言う、その時代を如実に想像できることです。 

いままで、こうした事実があるのになんでと、久米島の守り神その経緯の発見者が具志川間切、それから真謝のほうが近いとそして仲里間切の近くで遭難した冊封使を助けた、それは久米島挙げてのこと、その感謝の念で※1756年に天后宮を真謝に建立し、冊封正副使他が寄付及び寄贈品など送助、琉球国王(尚穆18才)も瓦、工費を用立て命令で建立したもので、久米島でしかこの天妃様の思し召しはないはず、返還交渉を久米島ひとつに行うことができたはずなのになぜと思います。 

心は通じます、その天妃菩薩様が寂しそうにしてます、思し召しくださることは久米島の地でしかその効果お守りはされてない、今現在、あの表玄関(仲里間切)であった真謝(美崎校区)が裏地になって寂しくなっているのも因果しているようです、そして久米島の現状のありかたにもその思し召しを感じるしだいです、心のよりどころをなくして分かる、分かっていて対処がないとなると、先祖が怒るのもむりない、地元の歴史を大事にしたうえでの現在の社会貢献繋ぎの歴史を刻みたい。

このページ観て、心当たりのある方もそう感じてくれることを期待し、出来ればお返し願いたいです。天妃菩薩さんが寂しそうにしてます、そして久米島が困っます、その時の中国の王様も納得しないでしょうと感じます。

今亡き兄そして、当初そのことを期した美崎小学校50周年記念誌発行の方々の思いがここに残る。

 「私のおもろさうし」気づき思い 


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