菩薩堂(ブサードー)天后宮跡
冊封使一行は難の末に首里王府へ到着し、冊封の儀式に臨み、約8ヶ月間滞在して
※中国皇帝(乾隆帝)⇒冊封正使(全魁)⇒冊封副使(周煌)⇒琉球王(尚穆王)
帰唐しているが、その間本地で島民に助けられたことを印している、それは九死に一生
を得た二百人余名の神佑を謝する意味で天妃堂の創建を国王に諮って実現にこぎつけた。
「南東風土記」より
冊封使一行は、蔵元に約2週間程奄留するが、一方「陸の側」即ち喜久村家所蔵の「口上覚」の写しか
草案らしきものによると、ことはそう単略的な出来事では済まされなかった。
具志川間切遠目番所からの経緯もあり、島内では将に震天動地の大事件であった。

口上覚  ※冊封頭号船航海(天妃菩薩)物語

恐多御座候得共申上候去子六月勅使様御乗船御渡海砌當間切真謝泊之沖江被遊御潮掛候内・・・・・・
強風により海が大時化となりましたので、心配でたまらずとりもなおさず縄索やいかりをたくさん用意したが
風波はますます酷なるばかりで夜になると諸役人をはじめ村人達も次第に集まり(幸いに雨が小止みになり)
乾いた薪を要所要所で燃やし南と西の干瀬崎から囲い込むように、又別の下手のほうも篝火を焚き連ねて
船の様子を見守っていましたが、突然縄索が切れてしまい船が大波にさらわれあっと言う間に黒石という
岩礁にへ打ち上げられてしまいました。船は上よ下よの大騒ぎで、勅使様の御姿すら見分けることが出来
ないくらい大事でした。そこで一身を賭してお助けするのが何よりの御奉公だと衆人の考えも一致して、
村人からは泳ぎの熟練者らが荒れ狂う海へ飛び込み、次々と船へ辿り着くと、手振り身振りで合図を交わし
ながら天馬船(荷物や人を本船まで運ぶ小さな船)を降ろし、救助に備えようとしましたが大波に呑まれて
困難をきたしてました。一時が万事、一体如何なることやら、はらはらしながら見ていたのですが、海の熟練
者達が遠巻きの輪を徐々にすばめながら励まし励まし安全な陸のほうへ手際よく助けることができました。
両勅使様(正使は全魁、副使は周煌)は衣服がお濡れになっただけでお怪我もなく首尾よく助けられたことは
幸甚この上ないことでした。蔵元へご案内した両勅使様は先刻来の濡衣を有名な衣裳へお召し替えていただき、
尋いで心許しの持成しですっかりお寛ぎになり一日のお疲れを癒したしだいでございます。

観音堂(カンノンドー)と天妃宮菩薩堂(ブサードー)

尚真王が久米島を征伐することになるが、沖縄本島では首里に按司を集め掟き領地を治め100年後地頭代
として置かれるが、久米島には按司掟を課せられた形跡はなく、首里政府に久米方代官が置かれ地頭代
喜久村家)までの100年のことは不明。※堂の比屋の乱後、この人を中城(仲里⇒宇江)按司とし更に
具志川仲里間切の総地頭にして、名前は「中城親雲上」が治める。尚真王は極めて温和な政策ををとり
久米島へ役人を配して押さえつける事はなく寛大に取り計らっている。

中城(宇江城)親雲上とは、久米法印と言う波の上寺の住職が隠居し故郷である久米島に観音様と帰り、
真謝に観音堂を建て信仰する弟子で、久米法印の死後、それを継いだ中城親雲上が宇江城の城跡の下
現在の所に移し信仰しているとある。
久米法印は遺老説伝によると、日本に渡り密教を学び、波の上護国寺の住職なったと記されていると云う。

読み方⇒親雲上 ペーチン

宇江城の観音堂元は真謝の天妃宮菩薩堂(ブサードー)の敷地にあり、中城親雲上が現在の宇江城に
移したもので、ブサードー28の隣「寺の側」(ティランスバ29)、県道へだてた「寺の門」(ティランゾー93)の
屋号が残る。ティランスバは中城(宇江城)の直系の本家と由緒ある所と云うので別邸等も考える。
天妃宮菩薩堂の建立前は、久米法印の観音堂があったと云われる。

※堂の比屋の乱(堂の比屋は久米島紬養蚕から色々な貢献をしたとも云われる)
中城(宇江城)按司の家来として務めていて、首里王の久米島征伐で城が焼かれ火の海になりどうしようも
なくなった按司が子供を堂の比屋にたくし自分は不明になる。堂の比屋はしばらくこの子を育てていたが後に
その子を誤ち病死として、首里へ行き王に色々と解きほぐし説明自分を中城王にして貰う。その時代位から
按司時代(琉球王国の戦国)から平和な琉球、武器を持たない国に移り変わる狭間で、琉球そして久米島
島民の為にも改革政治家「堂の比屋」は自身が、良い意味でのクーデターを考えていたのかもしれない。

琉球王国も三山統一(尚円志)し武器のない国(尚真)になるまではこうした陰謀があり、本島では護佐丸、
阿麻和利の乱がありせめぎあいは凄かったかも、でも平和への改革政治の始まりですが、「ワカチャラ」の
乱は久米島には痛手だったかもしれない、こうして琉球王国は三山統一からより以上の中国ほか外国との
交易を密にしハブ島としての機能を十二分に発揮し知能高い商人も久米(首里那覇)で
沢山(儀間真常、蔡温)生まれる、その時代に薩摩(島津)藩の侵攻での日本戦国時代真最中の貢献は
沢山あったであろう。
展望台(比屋定)からハテの浜 仲里間切蔵元跡 ブルースカイが?
一周線の丘から美崎校区 菩薩堂(ブサードー)天后宮跡 ブルースカイが入港
黒石林道から下 海洋深層水研究所 真泊港から美崎校区
黒石林道から チュラフクジ 真泊から一文字(釣りポイント)
真謝泊 仲原善忠先生、生誕の地 真泊から人道橋
ユイマール館 登那覇から、美崎校区 スラミから、美崎校区
美崎小学校 宇根の大ソテツ スラミから、奥武島
屋号1 屋号2 スラミのナミダ石
※このページは、「久米島の歴史・仲原 善忠先生」そして、私の恩師「久米島の地名と民族、久米島の按司物語・仲村 昌尚先生」の著書を参考引用にしました。「琉球歴史の謎とロマン」亀島 靖先生の著書を参考引用してます。
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