仲原善忠先生の経歴から見た美崎小学校(美崎校区)の歴史を知る
仲原善忠先生顕彰記念誌より
 
明治23年(1890年) 7月15日
久米島仲里村(当時は間切「マギリ」村)字真謝で生まれる。(合併後⇒島尻郡久米島町字真謝)
当時、父善久は29歳(母は24歳)で儀間、山城両村の村頭を勤めていて屋敷は小高く石垣を積みめぐらしているので、
石垣(イシジャチ)の屋号がついてます。今では貴重な高い福木が防風林となり屋敷を台風から守っています。


明治29年(1896年) 4月 6歳
島尻郡久米島真謝尋常小学校入学
実際には4歳の時から学校に通い、2級上に長兄善賢と次兄善徳がいた。
父は当時地頭代の補佐役を勤め、小学校と同じ構内で執務していた。
進歩的で身なりも村民より先をとり、里見八犬伝その他の小説等に読みふけっていた。保守的な真謝の地で開化的
だった父の勧めで善忠と兄たちは毎晩のように三国志の話を聞かされていた。真謝小学校は明治15年(1882年)の
創立だが、24年(1891年)の台風で校舎が倒壊し、旧蔵元(後の間切役場)に移転し、35年(1902年)までそこで
授業を受ける。

明治33年(1900年) 10歳
3月、真謝尋常小学校卒業。
尋常小学校は4年間だったが、4年間通じて毎年一番の成績をおさめ百田紙二包みの褒美をもらった。
4月、久米島尋常高等小学校高等科第一学級へ入学、二里へだてた儀間に通った。
小学校3、4年の頃、校庭のオシロイ花の茂みでハブにかまれ、ハブにかまれた季節になると頭痛を訴えることがあり
大変な思いもした。

明治37年(1904年) 14歳
3月、久米島尋常高等小学校卒業。
4月、沖縄県立中学校(後の1中)入学。
入学成績は120人中21番、成績芳しからず。
金もなく勉強できず、特に学資金と代数、英語に苦しめられた。

明治38年(1905年) 15歳
9月、家計が苦しくなり中学を退学する。
父は仲里間切学務委員でその報酬は年棒わずか60円(月5円)でしかなかったので、仕送りは困難であった。
退学後、41年3月までの2年7ヶ月は真謝の家で農業に従事。
帰郷してからの数年は、善忠にとって失意の時期で、思想的にもきわめて危険な時期であった。父は公使を失業して
現金収入がなく、租税にまで事欠くしまつであった。
善忠は農業のかたわら、役場の筆耕であった。後に産業組合の雇員などする。
農業しながら青年会に入り、いっしょに村芝居をやり「花風」を踊ったりして、青年たちにとけこんでいく一方、馬琴の
「弓張月や」や「里見八犬伝」を読んできかせたり、文明開化の新しい考えを説いたりして、若者たちの啓蒙に努める。

明治39年(1906年) 16歳
11月、津波をともなう台風が久米島を襲い、翌年40年は大飢餓に見舞われ、なお進学を断念。
このため北条侍従が損害見舞金伝達のため差遣される。

明治41年(1908年) 18歳
4月、沖縄県立師範学校入学。
善忠は夏期休暇を利用して友人の宇久本政元(真謝公民館の向かいの家)氏らを伴い帰郷し、青年ために講習会
を開いた。師範学校では、受験成績一番で合格し、予科、本科を通ずる学績も常に一、二番で通した。

明治45年(1912年) 22歳
3月、沖縄県立師範学校卒業。
4月、小禄尋常小学校訓導となる。
7月30日、明治天皇没。

大正2年(1913年)
4月、広島高等師範学校入学。
学校からの推薦で入学。

大正4年(1915年)
8月、天妃小学校の訓導だった与儀信と結婚。

大正6年(1917年) 27歳
3月、広島高等師範学校本科地理歴史科卒業。
中学校、師範学校、高等女学校における終身教育、歴史、地理、法制及び経済の教員免許取得。
現在の日本史、世界史、人文地理、社会及び倫理を包含する幅広い学習を在学中に積んだことがわかる。
成績は一番から四番くらいの間を上下した。
静岡県立静岡師範学校訓導兼教論になる。

大正9年(1920年) 30歳
青島(チンタオ)中学校教論。

大正12年(1923年) 33歳
3月、青島中学を退職し帰郷する。
沖縄師範、県立二中より誘いを受けたが、県庁当局の差別待遇にいやけがさし、すぐに鹿児島へ渡る。
4月、鹿児島県立第一師範学校教授となる。大正13年11月同校を退職し単身上京。

大正13年(1924年) 34歳
私立成城第二中学校教論となる。
約4ヵ月後一家上京し中野に移り住む。

大正14年(1925年) 35歳
3月、成城高等学校教論となる。

昭和2年(1927年) 37歳
4月、同学園中学部主任及び会計課長となる。

昭和3年(1928年) 38歳
4月、同学園教授を兼ねる。
5月、文部省の依頼を受けて、欧米各国の地理、歴史の教育を視察し翌年2月帰朝する。

昭和4年(1929年) 39歳
2月、同学園中学部長となる。

昭和6年(1931年) 41歳
4月、願いにより会計課長をやめる。
6月11日、東京文化書房より「世界地理精義」を出版。

昭和7年(1932年) 42歳
8月、大同館より「理法探求日本地理精説」を出版。

昭和8年(1933年) 43歳
7月、中学部長をやめ、庶務課長になる。

昭和9年(1934年) 44歳
改造社地理講座に「琉球」編を執筆。

昭和10年(1935年) 45歳
5月、成城学園参事となる。

昭和11年(1936年) 46歳
3月、庶務課長辞任、尋常科主事となる。

昭和14年(1939年) 49歳
7月、本職及び兼職を辞任、講師になり「成城学園25年史」を編集する。

昭和15年(1940年) 50歳
3月、学園より出張で、北支、中支の教育視察に出向く。
12月、実弟仲原善秀と共に「久米島史話」を出版。

昭和16年(1941年) 51歳
10月、明治大学講師となる。
12月、太平洋戦争(第二次世界大戦)勃発。

昭和18年(1943年) 53歳
1月、「かがり糸」<おもろさうしの基本的研究第一集>なる。
「久米島史話」の前後から、郷土沖縄への学問的関心が次第に成長開花し、その最初の成果がこの
「かがり糸」である。

昭和20年(1945年) 55歳
3月、東京が夜間大空襲を受ける。
4月1日、米軍沖縄に上陸各地で激戦。
6月21日、沖縄戦終結。
8月6日、広島に原爆投下、9日長崎に原爆投下、14日に日本降伏第二次世界大戦終わる。

昭和21年(1946年) 56歳
10月、成城高等学校を依願退職。
終戦直後、伊波先生の後任に沖縄人連盟の会長に就任。

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